特集 12年目の被災地(2) 岩手県の震災遺構
- 2023/03/11
- 15:00
東日本大震災の発生から、3月11日で12年になります。
今回は、普段の内容とは大きく異なるものの、各地の震災遺構や現在も休業が続く福島第一原発周辺の商業施設などを訪れた記録をご紹介いたします。興味がないという方や、震災でつらい経験があり思い出したくないという方がおられましたら申し訳ありません。特集記事を4つ投稿した後は今まで通りのスーパーマーケットの記事に戻りますので、ご了承ください。
(1)福島第一原発周辺の商業施設跡
(2)岩手県の震災遺構(現在のページ)
(3)宮城県の震災遺構
(4)福島県の震災遺構
という順番でご紹介致します。この記事では陸前高田市の高田松原津波復興祈念公園内にある「奇跡の一本松」や点在する震災遺構と、宮古市の震災遺構「たろう観光ホテル」をご紹介いたします。
東日本大震災では陸前高田市を地震と津波が襲い、死者・行方不明者は2000人近くにのぼり、市街地や海沿いの集落は壊滅しました。過去の度重なる津波から高田の街を守ってきた、約7万本と言われる高田松原もほとんどが流されてしまいましたが、その中で1本の松が倒されずに残りました。その姿から「奇跡の一本松」と呼ばれるようになり、復興のシンボルとなります。
一方で海水の浸食によって根が腐り、枯死が確認され保護は断念されます。それでも復興を象徴するモニュメントとして残すことが決定され、一度幹を切断して金属製の心棒を通し、枝葉は複製して取り付けるなどして現在の形で保存されています。

かつてはこの方向1面に松原が広がっていました。

献花台。

すぐ隣にあるこの建物は震災遺構「陸前高田ユースホステル」です。
2011年1月より長期休館中のところ、東日本大震災の津波によって建物が飲み込まれました。
なお、高田松原津波復興祈念公園内にある震災遺構では犠牲者は1人も出ていません。



公園内を歩いてみます。

海へ向かって1本の道が続いています。

海を見渡せる献花台。

松原の再生のため、植樹が行われていました。

公園内には道の駅と東日本大震災津波伝承館が併設されています。

少し歩いたところにある震災遺構「気仙中学校」
3階建て校舎を上回る14.2mの津波に襲われましたが、生徒と教職員は全員が高台へ避難して無事でした。


内部はガイドツアーでのみ立ち入ることが出来ます。

津波到達点は3階天井を超えており、校舎内に残っていれば助からなかったでしょう。

また少し離れた所ですが、震災遺構「下宿定住促進住宅」。
集合住宅が震災遺構として残されている珍しい建物です。14.5mの津波に襲われ、1階から4階が完全に水没。5階のベランダの化粧パネルだけが残っています。

めちゃくちゃになった室内も窺うことが出来ます。

典型的な団地という建物です。

3階のお風呂場から何か飛び出ています。

震災遺構「タピック45(旧道の駅高田松原)」。

建物の最上部をわずかに残して水没し、内部は激しく破壊されました。
しかし、裏側が階段状になっている構造のおかげで3名がギリギリのところで難を逃れました。

ところ変わって宮古市。
震災遺構「たろう観光ホテル」。
津波によって6階建てのホテルは4階まで浸水し、2階部分までは柱を残して構造物が流出してしまっています。

震災前の姿。

側面から。

骨組みだけになった部分。

エレベーターなども破壊されている様子がうかがえます。

現在はガイド付きでの内部見学を受け付けており、エレベーターも新しい建物に設置されています。

田老地区では1896年の明治三陸津波で1859人の命が奪われ、1933年の昭和三陸津波でも911人が犠牲になった教訓から、震災前から10mにも及ぶ巨大な防潮堤がありましたが、津波はそれを乗り越え181人が亡くなりました。防潮堤があるから避難しないという住民も居たそうです。現在はさらに高い14.7mの防潮堤が整備されましたが、住民の多くは高台へ移住し、従来の市街地には道の駅や野球場が立地しています。震災前にはこの付近にも住宅がありましたが、現在は更地となっています。

続いては宮城県の震災遺構を紹介いたします。
→http://daieisaison.jp/blog-entry-789.html
今回は、普段の内容とは大きく異なるものの、各地の震災遺構や現在も休業が続く福島第一原発周辺の商業施設などを訪れた記録をご紹介いたします。興味がないという方や、震災でつらい経験があり思い出したくないという方がおられましたら申し訳ありません。特集記事を4つ投稿した後は今まで通りのスーパーマーケットの記事に戻りますので、ご了承ください。
(1)福島第一原発周辺の商業施設跡
(2)岩手県の震災遺構(現在のページ)
(3)宮城県の震災遺構
(4)福島県の震災遺構
という順番でご紹介致します。この記事では陸前高田市の高田松原津波復興祈念公園内にある「奇跡の一本松」や点在する震災遺構と、宮古市の震災遺構「たろう観光ホテル」をご紹介いたします。
東日本大震災では陸前高田市を地震と津波が襲い、死者・行方不明者は2000人近くにのぼり、市街地や海沿いの集落は壊滅しました。過去の度重なる津波から高田の街を守ってきた、約7万本と言われる高田松原もほとんどが流されてしまいましたが、その中で1本の松が倒されずに残りました。その姿から「奇跡の一本松」と呼ばれるようになり、復興のシンボルとなります。
一方で海水の浸食によって根が腐り、枯死が確認され保護は断念されます。それでも復興を象徴するモニュメントとして残すことが決定され、一度幹を切断して金属製の心棒を通し、枝葉は複製して取り付けるなどして現在の形で保存されています。

かつてはこの方向1面に松原が広がっていました。

献花台。

すぐ隣にあるこの建物は震災遺構「陸前高田ユースホステル」です。
2011年1月より長期休館中のところ、東日本大震災の津波によって建物が飲み込まれました。
なお、高田松原津波復興祈念公園内にある震災遺構では犠牲者は1人も出ていません。



公園内を歩いてみます。

海へ向かって1本の道が続いています。

海を見渡せる献花台。

松原の再生のため、植樹が行われていました。

公園内には道の駅と東日本大震災津波伝承館が併設されています。

少し歩いたところにある震災遺構「気仙中学校」
3階建て校舎を上回る14.2mの津波に襲われましたが、生徒と教職員は全員が高台へ避難して無事でした。


内部はガイドツアーでのみ立ち入ることが出来ます。

津波到達点は3階天井を超えており、校舎内に残っていれば助からなかったでしょう。

また少し離れた所ですが、震災遺構「下宿定住促進住宅」。
集合住宅が震災遺構として残されている珍しい建物です。14.5mの津波に襲われ、1階から4階が完全に水没。5階のベランダの化粧パネルだけが残っています。

めちゃくちゃになった室内も窺うことが出来ます。

典型的な団地という建物です。

3階のお風呂場から何か飛び出ています。

震災遺構「タピック45(旧道の駅高田松原)」。

建物の最上部をわずかに残して水没し、内部は激しく破壊されました。
しかし、裏側が階段状になっている構造のおかげで3名がギリギリのところで難を逃れました。

ところ変わって宮古市。
震災遺構「たろう観光ホテル」。
津波によって6階建てのホテルは4階まで浸水し、2階部分までは柱を残して構造物が流出してしまっています。

震災前の姿。

側面から。

骨組みだけになった部分。

エレベーターなども破壊されている様子がうかがえます。

現在はガイド付きでの内部見学を受け付けており、エレベーターも新しい建物に設置されています。

田老地区では1896年の明治三陸津波で1859人の命が奪われ、1933年の昭和三陸津波でも911人が犠牲になった教訓から、震災前から10mにも及ぶ巨大な防潮堤がありましたが、津波はそれを乗り越え181人が亡くなりました。防潮堤があるから避難しないという住民も居たそうです。現在はさらに高い14.7mの防潮堤が整備されましたが、住民の多くは高台へ移住し、従来の市街地には道の駅や野球場が立地しています。震災前にはこの付近にも住宅がありましたが、現在は更地となっています。

続いては宮城県の震災遺構を紹介いたします。
→http://daieisaison.jp/blog-entry-789.html