特集 12年目の被災地(3) 宮城県の震災遺構
- 2023/03/11
- 16:00
東日本大震災の発生から、3月11日で12年になります。
今回は、普段の内容とは大きく異なるものの、各地の震災遺構や現在も休業が続く福島第一原発周辺の商業施設などを訪れた記録をご紹介いたします。興味がないという方や、震災でつらい経験があり思い出したくないという方がおられましたら申し訳ありません。特集記事を4つ投稿した後は今まで通りのスーパーマーケットの記事に戻りますので、ご了承ください。
(1)福島第一原発周辺の商業施設跡
(2)岩手県の震災遺構
(3)宮城県の震災遺構(現在のページ)
(4)福島県の震災遺構
という順番でご紹介致します。今回は宮城県の震災遺構として、石巻市の「大川小学校」「門脇小学校」、山元町の「中浜小学校」、仙台市の「荒浜小学校」と、「東松島市東日本大震災復興祈念公園」「南三陸町震災復興祈念公園」をご紹介いたします。
石巻市震災遺構大川小学校
住所:宮城県石巻市釜谷字韮島94番地
大川震災伝承館開館時間:午前9時から午後5時まで(入館時間は午後4時30分まで)。毎週水曜日休館。
公式サイト:https://www.city.ishinomaki.lg.jp/ruins/index.html(門脇小学校と共通)
石巻市立大川小学校では、津波により児童108名中74名と教員10名が亡くなりました。学校管理下でこのように大勢の犠牲者が出たのは、東日本大震災で大川小学校のみです。2021年7月18日より震災遺構として公開されています。










内部には千羽鶴が置かれています。

校舎は1985年に完成。当時この地区は河北町でしたが、2005年に石巻市へ合併しています。

校舎全景。円形のモダンなデザインが特徴的です。




津波到達までの経緯。地震発生から50分に渡って校庭にとどまり続けたことが批判されていますが、実際には避難先に選んだ「三角地帯」と呼ばれる川の堤防上も津波にのみ込まれており、その判断が早まったとしても結末は変わらなかったと推測されます。大川小学校は海からは3.7km内陸に位置しており、津波は到達しないと考える者もいましたが、北上川を遡った津波はここまで達しました。校舎の2階天井まで迫った高さ8.6mの津波から逃れるためには、裏山へ避難する以外に全員が助かる選択肢はありませんでしたが、土砂崩れや倒木などの危険を考慮した結果、決断を誤りました。








教室と体育館を結ぶ渡り廊下はねじり倒されています。


体育館の跡地。


プールの跡も残されています。

隣接して「大川震災伝承館」を設けています。






70名の死亡が確認されましたが、4名は今も行方不明のままです。


遺族が県と市に対して起こした裁判についても説明しています。訴訟は最高裁まで持ち込まれましたが、学校側の過失が認められ、2019年10月10日に遺族の勝訴が確定しました。

石巻市震災遺構門脇小学校
住所:宮城県石巻市門脇町四丁目3番15号
開館時間:午前9時から午後5時まで(入館時間:3月から10月までは午後4時まで 11月から2月までは午後3時30分まで)。毎週月曜日休館。
公式サイト:https://www.city.ishinomaki.lg.jp/ruins/index.html(大川小学校と共通)
校舎は津波の被害に加え、流されてきた車や住宅から引火した「津波火災」の被害を受けました。一方で学校にいた児童224人は教員たちの誘導で裏山の日和山へと避難し、全員が無事でした。学校に残った教職員や避難してきた住民も火災から逃れ、犠牲者は出ませんでした。岩手、宮城、福島3県の被災地沿岸部の自治体が整備する最後の震災遺構として、2022年4月3日より一般公開されています。




体育館を改築した伝承施設。



校舎内には立ち入ることは出来ませんが、窓から内部を見学できます。











津波火災が迫る中、教職員や住民は教壇を橋やはしごにして裏山へ避難しました。



石巻市は東日本大震災で最大の被災地でした。

「がんばろう!石巻」看板。

体育館には仮設住宅が展示されています。内部も見学することが可能です。

山元町震災遺構中浜小学校
住所:宮城県亘理郡山元町坂元字久根22番地2
開館時間:9時30分~16時30分(最終入館16時00分まで)。毎週月曜日休館。
公式サイト:https://www.town.yamamoto.miyagi.jp/soshiki/20/8051.html
児童や教職員、地域住民など90名が屋上に避難し、全員が助かりました。津波の到達までには実際には時間がありましたが、すぐに到達する恐れがあると推測し、避難場所にも指定されていない中浜小学校へとどまるという判断を下しました。しかし、津波は2階天井まで迫っており、校舎建設時に2メートルのかさ上げを行っていなかったら、異なる結末だったかもしれません。











2階の天井ギリギリまで津波が襲いました。屋上には倉庫が設置されており、その中に避難した90名が一夜を過ごしました。
翌朝、校庭には奇跡的に瓦礫が積み重なっておらず、救助ヘリが着陸し、迅速な退避が可能でした。


震災前の校舎。

1989年に新築された校舎は過去の津波被害を考慮し、2mのかさ上げが行われていました。。

震災遺構仙台市立荒浜小学校
住所:宮城県仙台市若林区荒浜字新堀端32-1
開館時間:(通常)9時30分から16時00分まで(7月・8月)9時30分から17時00分まで。月曜日及び第4木曜日(祝日を除く)休館。入館料は無料。
公式サイト:https://arahama.sendai311-memorial.jp/
2階まで津波が押し寄せましたが、児童や教職員、地域住民ら320人が避難し、全員が救助されました。










津波の被害が無かった4階では地震発生から避難、津波の襲来、救助されるまでの経過などをパネルで紹介し、小学校の思い出などを振り返る資料を展示します。



320名という多くの方が避難しましたが、当日17時半から始まったヘリコプターでの救助はホバリングし1人1人吊り上げて行われたため、全員の避難が完了したのは翌日の18時のことでした。

海が近くに見えます。

多くの人が避難した屋上。

「あの日、何をしていましたか?」
来館者がエピソードを記入することが出来るノートで、震災の伝承施設には多く設置されています。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
住所:宮城県気仙沼市波路上瀬向9-1
開館時間:4月~9月9:30~17:00(最終受付16:00)10月~3月9:30~16:00(最終受付15:00)。毎週月曜日休館。
公式サイト:https://www.kesennuma-memorial.jp/
津波で被災した気仙沼向洋高等学校を震災遺構として保存し、隣接する「震災伝承館」では震災の記憶と教訓を伝えています。地震発生時に校内にいた生徒は全員高台へ避難し、残った教職員や工事関係者、地域住民も屋上へ避難し無事でした。

校内の見学に入る前に、シアターで13分の映像を鑑賞しました。気仙沼の街を飲み込む津波の映像が多数紹介され、津波が迫る中逃げ惑う車や、流された家の屋根にとり残された男性など印象に残りました。気仙沼では津波により破壊された燃油タンクから大量の重油が流出し、夜になると気仙沼湾は一面火の海と化しました。本来重油に火は付きませんが、がれきの木材に付着し強風も相まって引火したとされています。津波火災は非常に広範囲に広がり、まさしく地獄絵図となりました。津波によるがれきの山が消火活動の妨げとなり、市街地の火災が鎮火したのは12日後の3月23日のことでした。






3階にある「津波により運ばれてきた車」


震災遺構では、がれきなどをきれいに撤去してしまう所が多いのですが、気仙沼向洋高等学校では散乱したがれきや教科書などを当時のまま残しています。

津波は4階の足元にまで迫りました。






体育館跡。


「自宅2階部分が流され校舎と生徒会館の間に挟まって助かった方 2名」

こういった状況だったようです。

折り重なった車。

「アノヒカラ12ネン アリガトウケセンヌマ」の文字が掲げられています。
2023年3月11日からしばらくは夜間に点灯しているそうです。

東松島市東日本大震災復興祈念公園
住所:宮城県東松島市野蒜字北余景56-36
開館時間:9:00~17:00。毎月第3水曜日休館。
公式サイト:https://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/index.cfm/22,28310,70,271,html
東日本大震災の「記憶」を風化させない施設として、JR仙石線の旧野蒜駅を改修した震災復興伝承館、震災遺構として旧野蒜駅のプラットホームなどを公開しています。なお、現在の野蒜駅は周辺の住宅と共に高台へ移転しています。





建物の屋上には20名が避難したそうです。


津波によって破壊された券売機などが展示されています。

南三陸町震災復興祈念公園
住所:宮城県本吉郡南三陸町志津川塩入31
震災の記憶と教訓を次世代へと伝えるべく2020年10月12日に開園しました。震災前には無かった堤防も整備されています。


旧南三陸町防災対策庁舎。
当初の津波の予測が6mであったため、53名が3階建の防災庁舎の屋上に避難しましたが、15.5mの津波が庁舎を飲み込みました。防災無線で住民に避難を呼びかけていた女性職員を含めて43名が犠牲となり、アンテナにしがみついた佐藤仁町長(現在も再選し町長を務める)など10人が生還しました。

実は、この建物は震災遺構として今後保存されることが決定した訳ではなく、一旦2031年3月10日までこの状態で置かれているに過ぎません。多くの人が亡くなっている施設であるため、保存に否定的な意見も多くあるようです。各地には、保存が検討されたものの「つらい被災体験を思い出す」等の反対意見に押され結局解体された施設も少なくありません。



公園内にある気仙沼線志津川駅の跡地。


現在はJR東日本が運行する気仙沼線BRTがバスで運行しており、「道の駅さんさん南三陸」に停留所が設けられています。

最後に福島県の震災遺構・伝承館を紹介します。
→http://daieisaison.jp/blog-entry-790.html
今回は、普段の内容とは大きく異なるものの、各地の震災遺構や現在も休業が続く福島第一原発周辺の商業施設などを訪れた記録をご紹介いたします。興味がないという方や、震災でつらい経験があり思い出したくないという方がおられましたら申し訳ありません。特集記事を4つ投稿した後は今まで通りのスーパーマーケットの記事に戻りますので、ご了承ください。
(1)福島第一原発周辺の商業施設跡
(2)岩手県の震災遺構
(3)宮城県の震災遺構(現在のページ)
(4)福島県の震災遺構
という順番でご紹介致します。今回は宮城県の震災遺構として、石巻市の「大川小学校」「門脇小学校」、山元町の「中浜小学校」、仙台市の「荒浜小学校」と、「東松島市東日本大震災復興祈念公園」「南三陸町震災復興祈念公園」をご紹介いたします。
石巻市震災遺構大川小学校
住所:宮城県石巻市釜谷字韮島94番地
大川震災伝承館開館時間:午前9時から午後5時まで(入館時間は午後4時30分まで)。毎週水曜日休館。
公式サイト:https://www.city.ishinomaki.lg.jp/ruins/index.html(門脇小学校と共通)
石巻市立大川小学校では、津波により児童108名中74名と教員10名が亡くなりました。学校管理下でこのように大勢の犠牲者が出たのは、東日本大震災で大川小学校のみです。2021年7月18日より震災遺構として公開されています。










内部には千羽鶴が置かれています。

校舎は1985年に完成。当時この地区は河北町でしたが、2005年に石巻市へ合併しています。

校舎全景。円形のモダンなデザインが特徴的です。




津波到達までの経緯。地震発生から50分に渡って校庭にとどまり続けたことが批判されていますが、実際には避難先に選んだ「三角地帯」と呼ばれる川の堤防上も津波にのみ込まれており、その判断が早まったとしても結末は変わらなかったと推測されます。大川小学校は海からは3.7km内陸に位置しており、津波は到達しないと考える者もいましたが、北上川を遡った津波はここまで達しました。校舎の2階天井まで迫った高さ8.6mの津波から逃れるためには、裏山へ避難する以外に全員が助かる選択肢はありませんでしたが、土砂崩れや倒木などの危険を考慮した結果、決断を誤りました。








教室と体育館を結ぶ渡り廊下はねじり倒されています。


体育館の跡地。


プールの跡も残されています。

隣接して「大川震災伝承館」を設けています。






70名の死亡が確認されましたが、4名は今も行方不明のままです。


遺族が県と市に対して起こした裁判についても説明しています。訴訟は最高裁まで持ち込まれましたが、学校側の過失が認められ、2019年10月10日に遺族の勝訴が確定しました。

石巻市震災遺構門脇小学校
住所:宮城県石巻市門脇町四丁目3番15号
開館時間:午前9時から午後5時まで(入館時間:3月から10月までは午後4時まで 11月から2月までは午後3時30分まで)。毎週月曜日休館。
公式サイト:https://www.city.ishinomaki.lg.jp/ruins/index.html(大川小学校と共通)
校舎は津波の被害に加え、流されてきた車や住宅から引火した「津波火災」の被害を受けました。一方で学校にいた児童224人は教員たちの誘導で裏山の日和山へと避難し、全員が無事でした。学校に残った教職員や避難してきた住民も火災から逃れ、犠牲者は出ませんでした。岩手、宮城、福島3県の被災地沿岸部の自治体が整備する最後の震災遺構として、2022年4月3日より一般公開されています。




体育館を改築した伝承施設。



校舎内には立ち入ることは出来ませんが、窓から内部を見学できます。











津波火災が迫る中、教職員や住民は教壇を橋やはしごにして裏山へ避難しました。



石巻市は東日本大震災で最大の被災地でした。

「がんばろう!石巻」看板。

体育館には仮設住宅が展示されています。内部も見学することが可能です。

山元町震災遺構中浜小学校
住所:宮城県亘理郡山元町坂元字久根22番地2
開館時間:9時30分~16時30分(最終入館16時00分まで)。毎週月曜日休館。
公式サイト:https://www.town.yamamoto.miyagi.jp/soshiki/20/8051.html
児童や教職員、地域住民など90名が屋上に避難し、全員が助かりました。津波の到達までには実際には時間がありましたが、すぐに到達する恐れがあると推測し、避難場所にも指定されていない中浜小学校へとどまるという判断を下しました。しかし、津波は2階天井まで迫っており、校舎建設時に2メートルのかさ上げを行っていなかったら、異なる結末だったかもしれません。











2階の天井ギリギリまで津波が襲いました。屋上には倉庫が設置されており、その中に避難した90名が一夜を過ごしました。
翌朝、校庭には奇跡的に瓦礫が積み重なっておらず、救助ヘリが着陸し、迅速な退避が可能でした。


震災前の校舎。

1989年に新築された校舎は過去の津波被害を考慮し、2mのかさ上げが行われていました。。

震災遺構仙台市立荒浜小学校
住所:宮城県仙台市若林区荒浜字新堀端32-1
開館時間:(通常)9時30分から16時00分まで(7月・8月)9時30分から17時00分まで。月曜日及び第4木曜日(祝日を除く)休館。入館料は無料。
公式サイト:https://arahama.sendai311-memorial.jp/
2階まで津波が押し寄せましたが、児童や教職員、地域住民ら320人が避難し、全員が救助されました。










津波の被害が無かった4階では地震発生から避難、津波の襲来、救助されるまでの経過などをパネルで紹介し、小学校の思い出などを振り返る資料を展示します。



320名という多くの方が避難しましたが、当日17時半から始まったヘリコプターでの救助はホバリングし1人1人吊り上げて行われたため、全員の避難が完了したのは翌日の18時のことでした。

海が近くに見えます。

多くの人が避難した屋上。

「あの日、何をしていましたか?」
来館者がエピソードを記入することが出来るノートで、震災の伝承施設には多く設置されています。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
住所:宮城県気仙沼市波路上瀬向9-1
開館時間:4月~9月9:30~17:00(最終受付16:00)10月~3月9:30~16:00(最終受付15:00)。毎週月曜日休館。
公式サイト:https://www.kesennuma-memorial.jp/
津波で被災した気仙沼向洋高等学校を震災遺構として保存し、隣接する「震災伝承館」では震災の記憶と教訓を伝えています。地震発生時に校内にいた生徒は全員高台へ避難し、残った教職員や工事関係者、地域住民も屋上へ避難し無事でした。

校内の見学に入る前に、シアターで13分の映像を鑑賞しました。気仙沼の街を飲み込む津波の映像が多数紹介され、津波が迫る中逃げ惑う車や、流された家の屋根にとり残された男性など印象に残りました。気仙沼では津波により破壊された燃油タンクから大量の重油が流出し、夜になると気仙沼湾は一面火の海と化しました。本来重油に火は付きませんが、がれきの木材に付着し強風も相まって引火したとされています。津波火災は非常に広範囲に広がり、まさしく地獄絵図となりました。津波によるがれきの山が消火活動の妨げとなり、市街地の火災が鎮火したのは12日後の3月23日のことでした。






3階にある「津波により運ばれてきた車」


震災遺構では、がれきなどをきれいに撤去してしまう所が多いのですが、気仙沼向洋高等学校では散乱したがれきや教科書などを当時のまま残しています。

津波は4階の足元にまで迫りました。






体育館跡。


「自宅2階部分が流され校舎と生徒会館の間に挟まって助かった方 2名」

こういった状況だったようです。

折り重なった車。

「アノヒカラ12ネン アリガトウケセンヌマ」の文字が掲げられています。
2023年3月11日からしばらくは夜間に点灯しているそうです。

東松島市東日本大震災復興祈念公園
住所:宮城県東松島市野蒜字北余景56-36
開館時間:9:00~17:00。毎月第3水曜日休館。
公式サイト:https://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/index.cfm/22,28310,70,271,html
東日本大震災の「記憶」を風化させない施設として、JR仙石線の旧野蒜駅を改修した震災復興伝承館、震災遺構として旧野蒜駅のプラットホームなどを公開しています。なお、現在の野蒜駅は周辺の住宅と共に高台へ移転しています。





建物の屋上には20名が避難したそうです。


津波によって破壊された券売機などが展示されています。

南三陸町震災復興祈念公園
住所:宮城県本吉郡南三陸町志津川塩入31
震災の記憶と教訓を次世代へと伝えるべく2020年10月12日に開園しました。震災前には無かった堤防も整備されています。


旧南三陸町防災対策庁舎。
当初の津波の予測が6mであったため、53名が3階建の防災庁舎の屋上に避難しましたが、15.5mの津波が庁舎を飲み込みました。防災無線で住民に避難を呼びかけていた女性職員を含めて43名が犠牲となり、アンテナにしがみついた佐藤仁町長(現在も再選し町長を務める)など10人が生還しました。

実は、この建物は震災遺構として今後保存されることが決定した訳ではなく、一旦2031年3月10日までこの状態で置かれているに過ぎません。多くの人が亡くなっている施設であるため、保存に否定的な意見も多くあるようです。各地には、保存が検討されたものの「つらい被災体験を思い出す」等の反対意見に押され結局解体された施設も少なくありません。



公園内にある気仙沼線志津川駅の跡地。


現在はJR東日本が運行する気仙沼線BRTがバスで運行しており、「道の駅さんさん南三陸」に停留所が設けられています。

最後に福島県の震災遺構・伝承館を紹介します。
→http://daieisaison.jp/blog-entry-790.html